明日は夏草の日

富久長 KUSA|草の根の賛歌

富久長の草KUSA元禄2年5月13日、新暦ならば1689年6月29日に、奥州平泉であの名句が生まれた。奥の細道の途上、丁度500年前にここで果てた義経に思いを馳せ、

夏草や兵どもが夢の跡 松尾芭蕉

それから過ぎた時間は331年。その間に草は生い茂り、草の根でさえも夢を語れる時代となっている。
富久長の草KUSA
それを如実に物語る酒が、富久長の「草」。昨年封切られた映画「カンパイ!日本酒に恋した女たち」でクローズアップされた、今田酒造本店の女性杜氏の醸し出す日本酒である。共演者である「GEM by moto」の千葉麻里絵氏とのコラボレーションにより、軽みの中にも深みのある、まさに芭蕉句のような味わいを実現。
ここに使われている酒米が、八反草という復活米であるところもいい。吟醸仕込みの洗練された口当たりの中にも、古より絶えることのない、日本酒特有の野性味が感じられる。
このような日本酒があるうちは、地球が枯れることはないだろう。

きれいな花など咲かさなくてよい。一本の草が小さな命を育むように、存在するだけで何かになっている、それが感じられる時間が流れていて欲しい。

▶ 富久長 草KUSA

日本一の人気酒

雨後の月 月後の太陽

雨後の月|日食のために準備した酒

日本酒雨後の月天岩戸神話を日食に結び付け、それを卑弥呼の時代の混乱に関連付ける学者が存在し、日本人の大半はそれを信じているようである。しかし、こんなバカな話はない。現代の日本の歴史は、有史以前の暮らしを貶めることに終始。わずか2000年ほど前の我らの祖先は、未開人だったと言いたいらしい。(*)

文字の無い時代の神話は、かたちを変えることで変動する社会のバランスを取った。けれども、国の広がりとともに広範囲での約束が重視される時代になって、記憶を補うとともに、伝達を効率化する役割を担う文字が欠かせなくなり、重用されるものとなった。そうして神話は、アイデンティティを内外に知らしめるために文字化され、固定化されたのである。
けれども、そうして残されたものは、時が流れるにつれて矛盾を大きくし、人々の対立をあおることとなった。さらには、その傍から次々と現れる新たな文書に、人々は情報処理能力を失い、混乱を来すばかりとなってしまった。
日本酒雨後の月
社会を思い、ひとを思うなら、文書は伝達対象を明確にし、役割を終えた時点で廃棄すべきである。残される文字には、感動を保存する「詩」のかたちだけがあれば良い。

という端からも、これを文書に起こす己の未熟さ。今日の日食に備えて購入した「雨後の月」に、あとのことは語ってもらおう。

うさくさをうしろに捨てゝ夏の月 子規

* そもそも、天岩戸神話は日食の話ではない。天岩戸神話を日食に重ねるなら、日神アマテラスの隠処に、なぜ月神ツクヨミは登場しないのか?アマテラスの岩戸隠れの根本原因は、荒ぶる神スサノオである。これを何らかの自然現象のたとえ話であると捉えるなら、火山の噴火の方が余程説得力があるように思える。
因みに、日本書紀の中では、卑弥呼は神功皇后だとされている。

▶ 雨後の月

日本一の人気酒

対立の世界 そして混乱の時代

瀧自慢|世界の脳幹にしみ込んだ酒

日本酒瀧自慢コロナ以降大混乱に陥っている世界。首脳陣も混迷を極め、国家間・民族間・人種間…ありとあらゆるところで騙し合いの様相を呈してきた。
挙句の果てにG7拡大構想なども持ち上がっている。議論で解決する時代は終焉し、同朋を取り込んで他者を攻撃する時代に移り変わったということか。

思えば、伊勢志摩サミットが開催された2016年はまだよかった。和気藹々とした雰囲気で話し合われた中に、ただ、感染症対策が重要議題として挙がっていたことには、今さらながら驚かされるが。
あの頃は、全てがまだ他人事だった。感染症など途上国問題だととらえ、援助に重心があったように思う。蓋を開ければ、欺瞞の中に問題が生じ、先進国での広がりは爆発的だった。
実際に問題が生じて思うのは、施策とは偽善に満ちたものなのではないかということである。

果たして、コロナ禍に対しても、政治が本当に力を発揮したのかと考えると、疑問符が付く。各国の死者数と行動制限の間には、期待するほどの相関関係は認められない。むしろ政治は、コロナ禍を支持者集めに利用し、ナショナリズムを拡大させた。日本酒瀧自慢
そして、それに対峙するかのように結束を固めたリベラリズム。自由の定義を怠ったまま、反発を糧にして広がる個人本意の排斥運動にまた、言い知れぬ危機感を覚えてしまう。

ニュースに疲れた今、時間を巻き戻そうと、伊勢志摩サミットで振舞われた「瀧自慢」を取り寄せてみた。赤目の瀧をモチーフにしたその日本酒は軽快ながらも、滝のように体に響く。
あの時の乾杯酒は、ひとを酔わせるのには十分すぎる。そして、人間、美味すぎるものばかり選択していては駄目だということを身に染みて思う。
今朝は激しい二日酔い。昼を過ぎても治まらぬ頭痛に、迎え酒をチビチビやって宙を見る。
「飲むべきものは酒じゃない。爪の垢でこそある。」
明日はまた、違う風が吹くのであろうが…

あぢさゐや仕舞のつかぬ昼の酒 岩間乙二

▶ 瀧自慢

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昭和の薫りを親父へと

越乃寒梅 灑|古くて新しい幻の日本酒

日本酒越乃寒梅国策で「三倍醸造」の日本酒が幅を利かせていた昭和の時代、本来の酒造りを貫き通した骨ある酒が「越乃寒梅」である。妙な甘ったるさの残る巷の酒とは明らかに違う飲み口が評判となり、昭和30年代後半に大ブレーク。一般市民には手の届かないものとなり、幻の酒と呼ばれるようになっていた。
当時の薫りを保つ酒が「白ラベル」と呼ばれる普通酒である。新橋あたりを歩いていると、店の隅にさりげなく置かれているのを見かけたりする。値段も手ごろになっていて、1本100円の焼き鳥などと一緒に注文したりするのだが、その名を口にする時には流石に背筋が伸びる。昭和生まれの者にとっては、それほどまでの効力を持つ。
ただ、業界が大きく変化する中、不変のラインナップで構える越乃寒梅には、やや面白みに欠けるところがあったのも事実。日本酒を飲むことを目的とした日には、目の前に置かれても敬遠していた。

2016年6月17日、そんな越乃寒梅に待望の新商品が出た。「灑(さい)」のラベルが貼られた涼しげなボトル。実に45年ぶりの新作となるそれは、酒蔵に吹く新しい風を物語っていた。越乃寒梅
4年経った今でも、この時期になると「灑」を求める。どっしりとした伝統の味わいの中にも、現代に通じる軽みがある。それはあたかも芭蕉句のよう。まさに不易流行の酒。この日本酒を飲む時には、松尾芭蕉の

酒のみに語らんかゝる瀧の花

の句を認めた水色のコースターを使用する。

そう言えば、越乃寒梅をこよなく愛する親父が、今にも街に繰り出そうとしている。「コロナにやられたら命はないぞ」と脅しても馬耳東風。今、妙案を思いついた。この酒を贈ろう。父の日に託けて。

▶ 越乃寒梅 灑

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